藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
好古と砲弾-旧領民からみた『坂の上の雲』(其の二)[松山藩松平家上屋敷]
旧松山藩領の、山あいにある町。夏休みに、私たちの住む地区でラジオ体操の会場となっていたのは、山の公園でした。

集合場所として、またラジオなどを置く台として利用していたのは、古い石碑です。またときには、この碑自体が、子どもたちの遊び場になっていました。

方形の石積みの上に、何年もかけて磨いたようなツルッつるの自然石が乗り、その上に碑本体が立っています。
碑銘は、「忠魂碑」。
その左には、「陸軍大将秋山好古謹書」とあります。
そして、自然石と碑本体の間にはさまり、なにか錆びた鉄の円筒が2本、ヌッとでていました。

d0121045_18191023.jpg
【写真:忠魂碑。この公園の裏手は昔、はげ山になっており、冬はスキーができました】

d0121045_1820885.jpg
【写真:碑の自然石の礎石と鉄の円筒】

小学生の私は、「好古って変わった名前だなぁ」と思ったことを覚えていますが、この碑の本当の意味を知るのは、後年、『坂の上の雲』を読んでからでした。

「忠魂碑」は、太平洋戦争まで全国各地につくられた、各戦の戦没者を慰霊し、忠節をたたえる碑。
件の石碑は、日清・日露の戦没者を示した慰霊碑で、昭和4年(1929)11月の建立だとあります。

碑文によれば、日清・日露の戦没者は、それぞれ2名、7名。
こんな寒村からも出兵していき、さらに戦没者までだしたことを考えると、とくに日露戦争が、国の総力をあげた戦争だったことを示しています。

好古の石碑についてよく調べられているブログ「鐘馗さんと名城めぐり」さんによると、秋山好古の揮毫(きごう)による石碑は、全国で44基発見されいてるそうですが、忠魂碑も複数あるようです。
「揮毫」とは、『大辞泉』によれば「特に、知名人が頼まれて書をかくこと」。
当時、各界の著名人や功労者が頼まれて碑銘を書することは、よくあったそうです。
好古揮毫の多さは、日本陸軍の要人であったためでしょうが、同時に、彼が同胞のことを思い、その死を強く悼んでいたことが偲ばれます。

山村の忠魂碑に戻りましょう。

この碑について特筆すべきなのは、碑の礎石となっている自然石と、そこからヌッと突き出していた鉄の円筒。
実は、日露の戦場に残されていた大石であり、砲弾だったのです。

d0121045_18211755.jpg
【写真:この錆びた鉄が、日露戦争の砲弾でした】

碑文は長年の風雨にさらされ、読み取れない文字もありますが、大意を示せば「この碑のためにはるか大連の地から、同胞の鮮血が飛び散った大石と、戦地にあった砲弾が送ってもらった」と書かれています。

軍関連の碑に、砲弾をかたどった支柱が置かれたりすることはよくあります。
しかし、苦心して運んだ遺物が使われている。たんに体裁だけを整えたのではない、思いの強さを読み取ることができます。

私は、秋山好古関連の史料を精読したわけではないので、彼の人柄は『坂の上の雲』をもとにするしかありませんが、好古がどういった人物であったか、この碑からもその匂いが立ち上ってくるように感じました。

次回は、秋山兄弟の像を、写真中心でご紹介しましょう。

====================================================
●「忠魂碑」所在地
【笛ヶ滝公園】愛媛県上浮穴郡久万高原町上野尻
問合せ:久万高原町役場産業振興課(TEL:089-221-1111)
====================================================

↓よろしければ、ランキングにご協力お願いいたします!
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ


[PR]
by edohantei | 2009-11-28 18:28 | 国許探訪
<< 秋山兄弟の像-旧領民からみた『... 旧領民からみた『坂の上の雲』(... >>


by edohantei
プロフィールを見る
画像一覧
カテゴリ
全体
藩邸随想
藩邸探訪
国許随想
国許探訪
フォロー中のブログ
最新の記事
以前の記事
メモ帳
最新のトラックバック
「坂の上の雲」の幕末と薩摩
from 郎女迷々日録 幕末東西
「坂の上の雲」NHKスペ..
from 郎女迷々日録 幕末東西
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧