北海道開拓と青山学院:藩邸イルミネーション2[西条藩上屋敷]
青山通りや表参道は、私にとって思い出深いところです。
東京ではじめていったクラブが、1996年当時、青山「ル・デコ」にあった(と記憶している)「PYLON」。南青山の「blue」という、ハウスやレアグルーブがよくかかるクラブにも通ったものです。
まだ20代も前半で、遊びたくてしょうがなかった私でした。
さて、クリスマス・イルミネーションといえば、キリスト教系学校も、毎年きれいに飾り付けられていますね。
私が大学生活を送った関西では、関西学院のイルミネーションが有名でしたが、東京では、立教大学のものがよく知られているようです。
残念ながら立教大学のキャンパスがある場所は、もと池袋村の畑地だったところなので、ここでは置き、藩邸ブログとしては、青山通り沿いにある青山学院大学キャンパスにフォーカスしてみたいと思います。
クリスマス前の青山通り、夜歩くと国連前も宮益坂も電飾で飾られ、さぶい心に益々拍車がかけられます。
青学前で門の中をみると、キャンパス奥のロータリーにそびえる樹の、鮮やかに彩られている姿が目に入りました。青学に、はじめて入ってみます。
確かにキレイだけれども、なんとなく原色過ぎてそらぞらしい光をながめながら、ふと、ここに青学が建ったいわれが気になりはじめました。
現在、青山学院大学が建っている敷地は、江戸時代には伊予西条藩松平家の上屋敷でした。
西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。
維新の興奮も冷めやらぬ明治4年(1871)、西条藩上屋敷跡地4万坪のうち約3万坪は、北海道開拓使の第1官園となります。
東京に3つあった開拓使官園は、いまでいう農業試験場のようなもので、第1、第2官園では野菜・果樹類を育て、第3官園では牧畜、牧草の育成をおこなっていました。
当時、青山や渋谷はまだまだ田畑の広がるのどかな郊外で、西条藩上屋敷は、江戸時代に霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにありましたが、版籍奉還、廃藩置県によって大名が立ち退いたあとは、広大な敷地をぜいたくに使うえるような状況になっていました。
開拓使官園が早々と北海道に移転したあと、空いた敷地に目をつけたのが、合併をめざして新校地を探していた2つのキリスト教系学校です。横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」で、これがのちに青山学院大学の原形となります。
彼らは明治15年(1882)に、総額6千円で念願の校地を購入し、それ以来、青山の地は青山学院大学の中心となったのです(現在の区画では、渋谷区渋谷3丁目となっています)。
そこで思い当たったのが、青学創設者と、北海道開拓使との関係です。
創設に、日本人として貢献したのは、明治初期の有名なキリスト教学者であり、最初の女子留学生・津田梅(梅子)の父である津田仙(つだ・せん)でした。
彼は佐倉藩家臣の家に生まれ、明治初期の農学者で、クリスチャン。教育に傾けた情熱は並々ならぬものがあり、自身も幕府使節とウイーン使節団の二度に渡って洋行し、西欧諸国から多くのことを学んでいます。そして、自身の娘も留学させるフロンティアぶりでした。
現在ではキリスト教精神にもとづく教育者としての業績がよく知られていますが、北海道開拓使の発足当初は嘱託を受けて働き、また、民部省にも勤めています。
ここで、さきほどの官園の話にもどってみましょう。
開拓使の官園は、都内に3つあったといいましたが、そのうち第3官園は、もと佐倉藩堀田家の下屋敷です。用地選定のさい、佐倉藩士であった津田の働きがあった可能性も考えられますね。
さらに、第1官園跡地を青学のキャンパスとして選定するにあたっては、開拓使にも勤めた津田の協力があったのかもしれません。
そう考えると、青学が青山の地に根づくには、偶然でなくひとつの流れのようなものがあったように思えてきます。
なんだか、藩邸とイルミネーションの関係とは、まったく関係ないような話になってしまいましたが、おしゃれな青山と江戸藩邸が無縁でなく、二つを結ぶ線が確かに存在していたことだけは、おわかりいただけたかと思います。
西条藩上屋敷については、その周辺も含めて興味深いところがあるので、また調べてみたいと思います。
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東京ではじめていったクラブが、1996年当時、青山「ル・デコ」にあった(と記憶している)「PYLON」。南青山の「blue」という、ハウスやレアグルーブがよくかかるクラブにも通ったものです。
まだ20代も前半で、遊びたくてしょうがなかった私でした。
さて、クリスマス・イルミネーションといえば、キリスト教系学校も、毎年きれいに飾り付けられていますね。
私が大学生活を送った関西では、関西学院のイルミネーションが有名でしたが、東京では、立教大学のものがよく知られているようです。
残念ながら立教大学のキャンパスがある場所は、もと池袋村の畑地だったところなので、ここでは置き、藩邸ブログとしては、青山通り沿いにある青山学院大学キャンパスにフォーカスしてみたいと思います。
クリスマス前の青山通り、夜歩くと国連前も宮益坂も電飾で飾られ、さぶい心に益々拍車がかけられます。
青学前で門の中をみると、キャンパス奥のロータリーにそびえる樹の、鮮やかに彩られている姿が目に入りました。青学に、はじめて入ってみます。
確かにキレイだけれども、なんとなく原色過ぎてそらぞらしい光をながめながら、ふと、ここに青学が建ったいわれが気になりはじめました。
現在、青山学院大学が建っている敷地は、江戸時代には伊予西条藩松平家の上屋敷でした。
西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。
維新の興奮も冷めやらぬ明治4年(1871)、西条藩上屋敷跡地4万坪のうち約3万坪は、北海道開拓使の第1官園となります。
東京に3つあった開拓使官園は、いまでいう農業試験場のようなもので、第1、第2官園では野菜・果樹類を育て、第3官園では牧畜、牧草の育成をおこなっていました。
当時、青山や渋谷はまだまだ田畑の広がるのどかな郊外で、西条藩上屋敷は、江戸時代に霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにありましたが、版籍奉還、廃藩置県によって大名が立ち退いたあとは、広大な敷地をぜいたくに使うえるような状況になっていました。
開拓使官園が早々と北海道に移転したあと、空いた敷地に目をつけたのが、合併をめざして新校地を探していた2つのキリスト教系学校です。横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」で、これがのちに青山学院大学の原形となります。
彼らは明治15年(1882)に、総額6千円で念願の校地を購入し、それ以来、青山の地は青山学院大学の中心となったのです(現在の区画では、渋谷区渋谷3丁目となっています)。
そこで思い当たったのが、青学創設者と、北海道開拓使との関係です。
創設に、日本人として貢献したのは、明治初期の有名なキリスト教学者であり、最初の女子留学生・津田梅(梅子)の父である津田仙(つだ・せん)でした。
彼は佐倉藩家臣の家に生まれ、明治初期の農学者で、クリスチャン。教育に傾けた情熱は並々ならぬものがあり、自身も幕府使節とウイーン使節団の二度に渡って洋行し、西欧諸国から多くのことを学んでいます。そして、自身の娘も留学させるフロンティアぶりでした。
現在ではキリスト教精神にもとづく教育者としての業績がよく知られていますが、北海道開拓使の発足当初は嘱託を受けて働き、また、民部省にも勤めています。
ここで、さきほどの官園の話にもどってみましょう。
開拓使の官園は、都内に3つあったといいましたが、そのうち第3官園は、もと佐倉藩堀田家の下屋敷です。用地選定のさい、佐倉藩士であった津田の働きがあった可能性も考えられますね。
さらに、第1官園跡地を青学のキャンパスとして選定するにあたっては、開拓使にも勤めた津田の協力があったのかもしれません。
そう考えると、青学が青山の地に根づくには、偶然でなくひとつの流れのようなものがあったように思えてきます。
なんだか、藩邸とイルミネーションの関係とは、まったく関係ないような話になってしまいましたが、おしゃれな青山と江戸藩邸が無縁でなく、二つを結ぶ線が確かに存在していたことだけは、おわかりいただけたかと思います。
西条藩上屋敷については、その周辺も含めて興味深いところがあるので、また調べてみたいと思います。
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by edohantei
| 2006-12-23 23:00
| 藩邸探訪