藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
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秋山兄弟の像-旧領民からみた『坂の上の雲』(其の三)[松山藩松平家上屋敷]
今日は、スペシャルドラマ『坂の上の雲』の初放映ですね。

先の「忠魂碑」について書いた記事のほうが独自性はありますが、今回は写真中心で。

万葉の昔から、松山に去来する船が停泊したといわれる三津浜の港。
額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば……」と詠んだ熟田津(にぎたつ)は、この三津浜か近くの古三津、または堀江、北条のあたりではないかといわれています(今治や対岸の大分ではないかという推論もありますが……)。
明治28年(1895年) 、夏目漱石が来松した際に利用したのも、この港でした。

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【写真:真之像のある大丸山から眺めた三津浜港。防予汽船の船が柳井に向かいます】

港を望む高台の上に、秋山好古・真之の銅像があります(伊予鉄梅津寺駅から徒歩5分)。
弟の真之も、東京に向かう際、大志に燃えてこの港を発っていったのでしょう。

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【写真:秋山兄弟像の案内板。現在は、ドラマにあわせてもう少し整備されています】

現在の真之の像は、10kmほど東にある、石手寺(四国八十八カ所の第五十一番札所)境内にあったそうなのですが、昭和43年(1968)に移されてきました。
しかし真之の人生を考えるとき、むしろ船出の地である三津浜のほうが、よりふさわしいという気がしてきます。

この秋山兄弟像は、時代の流れに翻弄され、もう少し込み入った経歴をもっているのですが、詳しくはNHKのサイトでご確認ください。

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【写真:見晴山にある秋山好古像(2代目)。昭和45年(1970)建立】

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【写真:秋山好古像の説明板】

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【写真:台座は、昭和11年(1936)道後公園に建てられた初代騎馬像から移設したもの】

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【写真:大丸山にある秋山真之像(2代目)。昭和38年(1963)建立、その後現在地に移設】

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【写真:秋山真之像の説明板】

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【写真:台座は、昭和6年(1931)道後公園に建てられた初代立像のものが、2転して現在地へ】

いっぽう、復元された「秋山兄弟生誕地」には、道後公園に設置されていた好古の像(初代)が復元され、真之の胸像もあります。

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【写真:秋山兄弟生誕地。常盤同郷会に隣接して復元】

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【写真:復元・秋山好古騎馬像】

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【写真:秋山真之胸像】

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【写真:復元された秋山邸の中。展示されている甲冑は、秋山家と関係ありません】

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【写真:秋山兄弟が使った『論語』の本。落書きがしてありました】

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秋山兄弟生誕地
松山市歩行町2-3-6 財団法人 常盤同郷会本部地
問合せ:089-943-2747
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by edohantei | 2009-11-29 20:32 | 国許探訪
好古と砲弾-旧領民からみた『坂の上の雲』(其の二)[松山藩松平家上屋敷]
旧松山藩領の、山あいにある町。夏休みに、私たちの住む地区でラジオ体操の会場となっていたのは、山の公園でした。

集合場所として、またラジオなどを置く台として利用していたのは、古い石碑です。またときには、この碑自体が、子どもたちの遊び場になっていました。

方形の石積みの上に、何年もかけて磨いたようなツルッつるの自然石が乗り、その上に碑本体が立っています。
碑銘は、「忠魂碑」。
その左には、「陸軍大将秋山好古謹書」とあります。
そして、自然石と碑本体の間にはさまり、なにか錆びた鉄の円筒が2本、ヌッとでていました。

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【写真:忠魂碑。この公園の裏手は昔、はげ山になっており、冬はスキーができました】

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【写真:碑の自然石の礎石と鉄の円筒】

小学生の私は、「好古って変わった名前だなぁ」と思ったことを覚えていますが、この碑の本当の意味を知るのは、後年、『坂の上の雲』を読んでからでした。

「忠魂碑」は、太平洋戦争まで全国各地につくられた、各戦の戦没者を慰霊し、忠節をたたえる碑。
件の石碑は、日清・日露の戦没者を示した慰霊碑で、昭和4年(1929)11月の建立だとあります。

碑文によれば、日清・日露の戦没者は、それぞれ2名、7名。
こんな寒村からも出兵していき、さらに戦没者までだしたことを考えると、とくに日露戦争が、国の総力をあげた戦争だったことを示しています。

好古の石碑についてよく調べられているブログ「鐘馗さんと名城めぐり」さんによると、秋山好古の揮毫(きごう)による石碑は、全国で44基発見されいてるそうですが、忠魂碑も複数あるようです。
「揮毫」とは、『大辞泉』によれば「特に、知名人が頼まれて書をかくこと」。
当時、各界の著名人や功労者が頼まれて碑銘を書することは、よくあったそうです。
好古揮毫の多さは、日本陸軍の要人であったためでしょうが、同時に、彼が同胞のことを思い、その死を強く悼んでいたことが偲ばれます。

山村の忠魂碑に戻りましょう。

この碑について特筆すべきなのは、碑の礎石となっている自然石と、そこからヌッと突き出していた鉄の円筒。
実は、日露の戦場に残されていた大石であり、砲弾だったのです。

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【写真:この錆びた鉄が、日露戦争の砲弾でした】

碑文は長年の風雨にさらされ、読み取れない文字もありますが、大意を示せば「この碑のためにはるか大連の地から、同胞の鮮血が飛び散った大石と、戦地にあった砲弾が送ってもらった」と書かれています。

軍関連の碑に、砲弾をかたどった支柱が置かれたりすることはよくあります。
しかし、苦心して運んだ遺物が使われている。たんに体裁だけを整えたのではない、思いの強さを読み取ることができます。

私は、秋山好古関連の史料を精読したわけではないので、彼の人柄は『坂の上の雲』をもとにするしかありませんが、好古がどういった人物であったか、この碑からもその匂いが立ち上ってくるように感じました。

次回は、秋山兄弟の像を、写真中心でご紹介しましょう。

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●「忠魂碑」所在地
【笛ヶ滝公園】愛媛県上浮穴郡久万高原町上野尻
問合せ:久万高原町役場産業振興課(TEL:089-221-1111)
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by edohantei | 2009-11-28 18:28 | 国許探訪
旧領民からみた『坂の上の雲』(其の一)[松山藩松平家上屋敷]
11月29(日)の放映開始を間近に控え、連日深夜、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』を紹介する番組が再放送されていますね。
やるぞやるぞといいながら、何年もたちましたので、ファンの方としては「ようやく」という感が強いでしょう。

旧松山藩領出身の私も楽しみにしていますが、気分屋なので面倒くさかったら観ないかもしれません。

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【写真:松山城天守の破風群】

司馬先生の作品は多くのファンを生み、その影響力は計り知れないものがあります。
しかし、いわゆる「司馬史観」への反発から、批判的な人も少なくないですね。
『坂の上の雲』の舞台となった、地元松山市も例外ではありません。
映像化に先だって2006年には、松山城域内に「坂の上の雲ミュージアム」が竣工したのですが、『坂の上の雲』を軸としたまちづくりに対しては、市内の市民団体から反対意見がだされ、軌道修正を余儀なくされたという経緯もあります。
なかなか、難しいところですね。

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【写真:坂の上の雲ミュージアム前の番長遺跡案内板】

私自身は、どういう立場をとろうというつもりもありません。
とはいえ。

司馬先生は、たとえば『街道をゆく14 南伊予・西土佐の道』などで、本当に上手く伊予、そして松山の気風を持ちあげて下さっているんですよね。
賛美一辺倒でもなく、少しからかうような感じも含みながら、その味を描写する。
これが、気持ちいい。
「愛媛って、名古屋のあるところだよね?」といわれることさえあるマイナー県ですからね。
伊予人の私としては、司馬先生の「お上手」が、単純にこそばゆく、うれしいのです。

伊予は古来、常に負けつづけてきた国でした。
承平・天慶の乱では藤原純友が追捕され、承久の乱では、最大の豪族・河野氏が宮方について一族滅亡の危機に陥り、南北長期は阿波・讃岐にいた細川氏の動向に翻弄され、戦国期は毛利、大友、一条、長宗我部氏の侵略を受けました。
さらに、戊辰戦争にあたって松山藩は朝敵の汚名を着せられ、慶応4年(1868)1月から5月まで土佐藩の占領を受けて、完全な負け組のまま明治を迎えたのです。

伊予が武勇をはせたのは、藤原純友の戦いぶりや、源平の争乱で活躍した河野通信、元寇時に「河野の後ろ築地」でがんばった河野通有のときくらいでしょうか。
第二次長州征伐時、大島口の戦いでの惨敗は、まことに情けないものだったようです。

いま、そのことを意識している愛媛県民は少ないようですが、明治期、秋山兄弟が遮二無二がんばったのも、こうしたことが背景にあったためかもしれません。
かわいそうな伊予、かわいそうな松山……。

でも、そういう虐げられた感じが、なぜか愛媛にはありません。
なんとなくやんわりと、現状を受け入れて鷹揚に生きている。似たようなことを、司馬先生もおっしゃってますが、やる気もないけど大して悲観もしていない、ある意味楽天的で、ほどほどに現実的なところが、伊予人の特徴なのかもしれません。

次回の記事では、ちょっと地元の人しか知らないような秋山兄弟の情報も交えながら、松山藩の国許を語ってみましょう。

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【写真:松山城天守からみた道後平野と瀬戸内の海】

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by edohantei | 2009-11-25 21:44 | 国許随想
真田殿の上屋敷を訪ねる[松代藩上屋敷]
先の記事で、松代藩真田家上屋敷について触れたので、実際にいってきました。

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経済産業省別館

住所は、千代田区霞が関1丁目3-1。
現在は、経済産業省別館が建ち、資源エネルギー庁、中小企業庁、経済産業研究所などが入っています。
しかもこの地は、明治23年(1,890)11月、第1回帝国議会が行なわれた議事堂の跡地でもあるのです。
祝田通り沿いの歩道に、そのことを示す古びた立て札がありました。
まさに、近現代日本政治の中心地といえますね。

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帝国議会議事堂跡を示す由来板

信濃最大の石高(10万石)をもつ松代藩ですが、幕府要職を務める譜代諸藩や、福岡藩黒田家、長州(萩)藩毛利家などの大身外様諸藩が立ち並ぶ中に屋敷地をもてたのは、特筆すべきことかもしれません。
一般には外様大名と思われていますが、徳川家と縁戚関係があり、江戸後期には、親藩・譜代の養子を入れて老中もだすなど、譜代格というべき存在だったことが、関係しているのかもしれません。

それにしても、どうでしょう。
かほど人気のある真田家の上屋敷跡地に、それを示す立て札一つないというのは、さみしい話です。
近くの米沢藩上屋敷跡には、立派な記念碑が立っているのですが……。

なお、松代藩中屋敷の建物が長野県上田市のホテルに移築され、また藤沢市の龍口寺にも藩邸の建造物が移されているそうです。

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◆信濃松代藩真田家
上屋敷:外櫻田(霞ヶ関、新シ橋の内)→千代田区霞が関1丁目3-1
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by edohantei | 2009-11-24 08:33 | 藩邸探訪
サムライ・ハイスクールと望月氏[松代藩上屋敷、望月能次郎居屋敷]
この秋、日テレ系列で毎週土曜21時から放映されている『サムライ・ハイスクール』

大坂夏の陣で戦没した真田幸村の若き家臣・望月小太郎が、氏名を同じくする現代の高校生に乗り移り、さまざまな事件を巻き起こす、学園ドラマというかホームコメディというか、そんな感じのドラマです。

戦国武将がからんでいるけれど、史実とは無関係の他愛ない作り物。といえばそれまでですが、こんなベタな青春ドラマもいいじゃないか、と毎回楽しみに観ています。
11月21日放送の「其の六」では、主人公・望月一家の家族愛に、ホロリと涙まで流してしまいました。

それはさておき、「望月小太郎」。
ドラマでは、真田一の武将・望月宇兵衛の弟という設定になっています。
このドラマのために創出されたであろうこの人物は、なにか前提となるものがあったのでしょうか。

真田といえば、「真田十勇士」
参考にはなるし情報量も多いけど、事実誤認も多いWikipediaによれば、真田幸村(信繁)に仕えたとされる彼らの呼び名は、立川文庫にはじまるそうです。

もちろん物語上の存在で、実際に「真田十勇士」と呼ばれた家臣団(?)はいなかったらしいですが、十勇士のうち、モデルとなる人物がいる者、実際に存在した者もいるそうなので、こちらをチェックしましょう。

いました。望月六郎です。
これまたWikipediaによれば、望月六郎には、「望月宇右衛門、または望月甚左衛門、または望月卯兵衛、または望月卯左衛門幸忠」というモデルが存在するそうで、

望月卯兵衛×望月宇右衛門=望月宇兵衛

となった可能性はありそうです。このあたりは、ドラマの制作者に訊くのがいちばん早いのでしょうが……。
望月自身が死んだのは、おっさんになってからなので、乗り移った高校生に年齢を合わせるため、享年17歳の「望月小太郎」が創りだされたのでしょう。

とはいえ、真田氏望月氏には関係があります。
真田氏も望月氏も、信濃の名門・滋野(しげの)氏の末裔を称する一族なのです。

いつも参考にさせていただいている「播磨屋.com」さんの「武家家伝」によると、望月氏については「滋野氏の後裔を称しているが、おそらく信濃十六牧の筆頭望月之牧の牧監であったものの子孫と考えられる」としながらも、系図上は滋野氏後裔の望月太郎をはじめとしているのだそうです。
しかし、望月氏の嫡流は河中島合戦で戦没し、さらにその名跡を継いだ武田家の血を引く人々も、本能寺の変後に起こった混乱のなかで、徳川家康に追い落とされてしまいます。

いっぽう真田氏は、滋野氏嫡流を称する海野氏の分流です。
海野氏は武田信虎と信濃豪族たちに滅ぼされ、さらにその名跡は信玄の子・信親が継ぎますが、武田滅亡とともに絶えます。
以後、海野氏の名は、関ヶ原後も残った真田家の家中に残されていくこととなります。

真田幸村(信繁)と望月六郎、フィクションの中でつながっている二人ではありますが、まったく適当につなげられたのではなく、実は戦国の信濃をバックボーンにしていたんですね。

そういえば、11月20日放送の『タモリ倶楽部』で、静岡には望月姓がやたら多い、という話をしていましたが、山梨県でも、望月は名字のランキング3位以内に名を連ねています。
いっぽう、望月氏発祥の長野県では、ランキング90位以下と他家に押されぎみな状況です。

ところで、藩邸に関するブログなのに藩邸に触れないのもさみしいので付け加えると、信濃松代藩真田家の上屋敷は新シ橋の内、いま中小企業庁などが入っている経済産業省別館あたりにあり、旗本・望月能次郎(熊次郎)の居屋敷は、いまの新宿区西五軒町にありました。

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by edohantei | 2009-11-23 02:00 | 藩邸随想
殿様の呼び方
今日は少し、提言めいたことを書きます。
辛口になるかもしれませんが、御寛恕ください。

戦国武将好きなレキジョの日常を、マンガやエッセイでつづった『戦国武女子、参る! いっそ武将に仕えたい!』(そらあすか著/メディアファクトリー)が、ちょっとした話題になっていますね。

その中に、殿様によって「誰々は御実城様」「誰それは御屋形様」と呼び方が変わる、という話がでてくるのですが、そのエピソードを読んで、私は、仕事でお世話になった女性編集者のことを思い出しました。

ある本の制作過程で、ライターさんが上げてきた原稿の中に、徳川将軍もしくはどこかの藩主のことを「彼」と呼んだ下りがありました。
たとえば、「後を継いだのが四男の吉宗である。彼は、(以下人物評)」というような感じです。

それを読んだ私は、なんとなく違和感をもったのですが、事実誤認などはなかったので、そのまま件の編集者さんに渡しました。
すると、「殿様のことを“彼”と呼ぶのはちょっと……」という校正(訂正)が返ってきたのです。

それをみて私は、「なんとも古風な……」と思ういっぽうで、少しうれしい発見をした感じで、新鮮な気分になりました。

古くは、位の高い人の氏名を直接呼ぶことがはばかられるため、その人の屋敷がある場所や、支配している地域で呼び変えられることがよくありましたね。
その時代、相手との身分関係で生まれる特有の呼び方、とでもいえばいいでしょうか。「御実城様」などもその一つですね。 

たとえば、平安時代にあっては「白河殿」などがわかりやすい例ですし、徳川家がたっとばれた江戸時代では、市街図にあたる切絵図をみても、御三家なら「尾州(尾張)殿」だとか「紀伊殿」「水戸殿」、御三卿では「清水殿」などと書かれています。
たとえ御家門であっても、会津松平家が「松平肥後守」と書かれているのに比べれば、扱いが一段違うのです。

明治以降、さらに戦後になってから、民主主義教育が徹底されるにつれ、身分や階級といったものが、とにかく悪いものと考えられるきらいがありました。

そして今では、歌舞伎役者や狂言師、落語家など、古くはいわば「異能の人」であった芸能を職とする人たちが、ときには実際の価値以上に持ち上げられる一方で、天皇陛下が「天皇」と呼び捨てにされるようなことさえ、ままあります。
敬意の比重が、あべこべなのです。

私は、別にネット右翼でもなければ差別主義者でもありませんが、いにしえの支配階級が築いてきたものに対する最低限の敬意は、やはり必要なのではないかと思います。

テレビで、識者が「天皇が……」などといっているのを聞くと、虫の居所が悪いときは「どこの馬の骨がいってんだよ」と、大人げなくも思ってしまいます。

もちろん、すべての人がそうあるべきとは思いませんし、歴史に関心のない人が、殿様のことをどう呼ぼうがかまいませんが、少なくとも歴史好きの私たちのうち一定数は、そこにちょっとしたこころづかいをしていいんじゃないか、と思うのです。

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by edohantei | 2009-11-14 02:30 | 藩邸随想
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ三・結)[武田大膳大夫下屋敷]
先の記事で、武田宗家のお屋敷は、幸橋門外(港区新橋2丁目15)のほかにもある、と書きました。

なぜ私は、屋敷の場所にこだわるのでしょう。
もちろん、江戸藩邸愛好者として、コレクター的に情報を集めたいという気持ちもあります。
でもいっぽうで、武田好きの方々に、戦国の勇壮な武田家とはちがった一面、江戸時代の武田宗家とその実相について多少なりともお伝えしたい、という思いもあるのです。
私は武田氏研究の専門家ではありませんが、多くの歴史本で、あたかも戦国時代に武田のすべてが終わってしまったかのような書かれ方をしているのは、少し残酷すぎる気がしています。

本題に戻りましょう。
果たしてもう一つのお屋敷は、東京タワーのすぐそばにありました。
港区芝公園3丁目6-7、オランダ大使館に隣接する、芝給水所公園運動場(サッカー場)の南側およそ半分が、かつての武田大膳大夫下屋敷です。
広さは、1191坪にもおよびました。

です、と言い切りましたが、実ははっきりしていない部分もあります。
資料により、この屋敷地の持ち主が、一定しないのです。

実際に、訪れてみました。
増上寺御成門のそばを通り、切通(きりとおし)と呼ばれた正則高校前の坂を上がって、オランダ大使館に突き当たると左におれる。すると、目の前に東京タワーと芝中・高のグランドが現れます。
右手が、芝給水所公園です。

中にはレンガ造りの建物が一部残されていました。壁面に「芝浄水池」と書かれたプレートと、旧東京市の市章がはめ込まれています。
ここは、東京でもっとも古い給水施設の名残なのです。

下部の銅板に「芝給水所の歴史」と説明があり、この施設は明治31年(1898)12月、淀橋浄水場から給水を受けるかたちで稼働を始めたのだそうです。
そしていまは、建物の地下が配水池となって渇水時などに備えられ、上部がサッカー場を中心とした公園として整備されているとのことでした。

しかし驚いたのは、説明板にハッキリと、この給水所が「信濃小諸藩主牧野遠江守康済(やすまさ)の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年に竣工した」と記してあったことです。

手元の資料を古い順に並べると、

・文政11年「分間江戸大繪図」
オランダ大使館と芝給水所の全域が、天保の改革で有名な遠江浜松藩・水野越前守忠邦の上屋敷

・天保14年「御江戸大繪図」
大和高取藩・植村出羽守の上屋敷と、タケ田(大膳大夫屋敷)

・安政年間の江戸を再現した「復元江戸情報地図」
同じく植村出羽守上屋敷と、武田大膳大夫下屋敷

・万延2年改訂の尾張屋版「江戸切絵図」
駿河沼津藩主・水野出羽守の上屋敷と武田大膳大夫屋敷

となっており、牧野遠江守の名前は登場しません。

いずれも歴代藩主に老中や若年寄を出した譜代藩ですから、役職の去就にともなって上屋敷の移動はあったでしょう。
また、最終的に出羽山形藩へ左遷された水野忠邦の家系と、沼津藩主水野出羽守の屋敷は、史料により混同もみられますので、間違いの可能性もあります。

ここに突然、牧野遠江守康済がでてくると、さすがに混乱してしまいます。安政年間まで、小諸藩牧野遠江守の上屋敷は浜町にあったはずなのです。
しかしよく調べてみると、有名なサイト「江戸大名公卿net」さんの情報に、文久年間に芝切通に移っていたとの記述がありました。

こんなに出入りの激しいのが事実だとしたら、芝切通は江戸城西ノ丸下の老中屋敷のように官舎的な役割を果たしていたのかもしれませんが、いずれにしても、少なくとも天保14年(1843)~万延2年(1861)の間、三つの資料で共通している武田大膳大夫(下)屋敷の存在は、確実とみていいのではないでしょうか。

こうしてみてくると、武田宗家は家禄わずか500石ながら上、下の屋敷をもち、代々表高家に列し、高家肝煎も務めるなど、儀礼的な役割とはいえ、幕府においても一定の位置を占めていたことがわかります。
しかしそれだけに財政はひっ迫していたようで、明治以降の没落ぶりは目を覆うものがあったとも聞きます。
いまこうして、末裔の方が健在でいらっしゃるのは、奇跡というべきことなのかもしれません。

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オランダ大使館。2008-2009年は、日本オランダ年だそうです

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芝給水所公園の入り口。事務所は、もとの建築を模してレンガ造り風になっていました

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残された芝浄水池のレリーフ。100年以上の歴史があります

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銅製の説明板が、芝給水所の歴史を語ります

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芝給水所公園運動場(サッカー場)。少年たちが紅白戦をやっていました

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by edohantei | 2009-11-12 23:45 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ二)[武田大膳大夫居屋敷]
先の記事で触れたように、江戸時代の武田宗家は、5代将軍綱吉によって表高家へ格上げされました。
さらに、高家5代目の信典が、高家肝煎に任ぜられます。

「高家-肝煎(こうけ-きもいり)」というのは、『デジタル大辞泉』(小学館)によると「江戸幕府の高家のうち、三人で月番をつとめ、職務を主宰したもの」だそうです。
高家の職務は、朝廷や他国勅使への儀礼、幕府の公式行事を執り行うこと。それを束ねるのですから、名家ならではの仕事といっていいでしょう。

しかし、そうはいっても家禄は500石。
武田大膳大夫居屋敷の敷地は、当時の旗本屋敷としては、大きなものではなかったようです。
実際に周囲をぐるりと歩いてみましたが、東西およそ半町あまり(1町は約109メートル)、南北はさらにその半分といったところでしょうか。

西側は、新橋レンガ通り。江戸時代でいうところの愛宕ノ下大名小路です。通りの両側には、越後新発田藩溝口家、上野伊勢崎藩酒井家、陸奥一関藩田村家などの上屋敷が並んでいました。
おそらく、当時はこの新橋レンガ通り側に武田家居屋敷の表門があったのでしょう。
そして、屋敷址に現在建つものは……。

列挙してみます。

・居酒屋
・天丼屋チェーン店
・ビジネスホテル
・個室ビデオ観賞
・(強壮剤を前面に押し出した)薬局
・スキンヘッドのお兄さんが客引きを行う怪しげな店

うん、イイ感じです。

信玄公は、井上靖『風林火山』によって好色のイメージを定着させた感がありますが、いま屋敷地に立ってみると、まったくちがう景色ではありながら、どこかその家風をしのばせるような……。
などといったら、武田宗家と山梨県民の方々にお叱りを受けてしまいますね。

しかし、ここで江戸時代の武田宗家屋敷の探究を終わりにしてはいけません。
実をいうと、お屋敷はもう一つあったのでした。

其ノ三へつづく】

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武田宗家居屋敷跡地の眺め。個室ビデオの看板が目につきます

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こちらは、新橋レンガ通り側のようす。またここにも、個室ビデオが……

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さらに、薬局のセクシーな看板はインパクトがありますね

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新橋レンガ通り側にある、愛媛新聞東京支社のビル。このあたりからは、越後新発田藩溝口家の上屋敷地であったと思われます

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by edohantei | 2009-11-10 02:39 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ一)[武田大膳大夫居屋敷]
戦国末期、武田勝頼は天目山の戦いに敗れて自害し、源義光からつづく甲斐源氏武田家は滅亡した。
というのが、もっとも一般的な理解ですね。

しかし実は、勝頼の異母兄信親の子が生き延びており、子孫が江戸時代に武田宗家の再興を許され、今日まで続いている、というのが、ちょっと踏み込んだ理解です。

さらに踏み込むと、再興した武田宗家は柳沢吉保と縁が深く、江戸から明治にかけて、柳沢家から三度も養子を入れているため、武田宗家というよりは柳沢家に近い、ともいえます。

けれども、江戸時代の武田宗家は、どこに住んでいたのでしょうか。
それが、今回のテーマです。

JR新橋駅に、烏森口という出口があります。

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おやじの聖地・SL広場ではなく、もっと辺鄙な西新橋方面に向かう出口。

なぜ「烏森」なのか。現在の地名は、新橋2丁目です。
簡単にいえば、烏森神社というお社があるからです。この神社はお稲荷さんで、江戸時代には烏森稲荷と呼ばれていました。

烏森口をでてすぐ、西へ向かって「烏森通り」という道が伸びています。右手にかの有名な「NEWしんばしビル」を、左手にパチンコ屋の「TOPS」をみながら歩いていく道です。
朝日新聞社発行の『復元江戸情報地図』によると、この通りは江戸時代、烏森稲荷にちなんで「稲荷小路」と呼ばれていたようです。

「NEWしんばしビル」をすぎて、一つめのブロックに、ありました。
ほっそりと、烏森神社への参道がつづいていました。

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この神社、参道わきに甘味処あり、オリジナルの「色みくじ」あり、鳥居や社殿のかたちが変わっていたり、稲荷さんなのに狐がおらず狛犬だけだったり、町火消が奉納したとおぼしき「きやり塚(木遣り塚)」があったりと、小さいわりに見どころがたくさんあります(由緒等については別途)。
周囲の小道は飲み屋や料理屋が多く、歳の離れたカップルが肩を寄せ合っていたりして、神社の怪しさと繁華街のアヤしさが混ざり合い、素敵に猥雑な雰囲気を醸し出しています。

……と、なぜここまで延々烏森神社の話をしてきたかといえば、そのすぐ北側が、武田宗家の屋敷があった場所なのでした。
いささか前置き長し、ですがこの界隈の雰囲気を示すには、烏森神社の説明から入るのがわかりやすいのです。

中嶋繁雄氏の『戦国の雄と末裔たち』(平凡社新書)によれば、5代将軍綱吉の代になって柳沢吉保の嘆願があり、武田家は甲斐八代郡で新知500石を拝領。表高家(おもてこうけ)に叙され、「江戸城幸橋門外に宅地をあたえられた」そうです。

確かに、『もち歩き江戸東京散歩』(人文社)に掲載された尾張屋版・江戸切り絵図にも「武田大膳大夫」とあり、『復元江戸情報地図』にも、「高家肝煎・武田大膳大夫居屋敷」と掲載されています。
天保14年(1843)の「御江戸大繪図」には「河ノ/武田」、文政11年(1828)改訂の須原屋版「分間江戸大繪図」には「武田/ヨソ」と書かれていますが、これは別途検証するとして、ここ新橋2丁目15あたりに、武田家の居屋敷があったのは間違いないでしょう。

其の二へつづく】

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SL広場側から、烏森神社へ至る脇道。年の離れたカップル。この写真では肩を寄せ合ってはいないが

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烏森神社の鳥居と社殿。ユニークなかたちをしています。意外と人通りの多いところです

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境内では、きやり塚と狛犬が目に付きます

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「心願色みくじ」の奉納所。説明もあって、本格的

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社務所の脇をぬけて裏通りへでると、そこは料理屋やビストロが軒を並べる大人の通り。通は、こういったところへ通うのだろう

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by edohantei | 2009-11-09 18:41 | 藩邸探訪
愛宕山の夜景~『JIN-仁ー』より[伊予松山藩上屋敷]
TBS日曜劇場の『JIN-仁ー』
オープニングのタイトルバックに広がるのは、幕末の慶応元(1865)年から2(1866)年にかけ、F.ベアトが撮影した、愛宕山からの眺めです。
すなわち、私たちが知ることのできる、数少ない本当の江戸の姿でもあります。
そこには、私の国許・伊予松山藩の上屋敷も写っています。

愛宕山から東を望んだベアトの写真は、5枚続きのパノラマビューになっていて、左手の北側は江戸城西ノ丸下あたりから、遠く築地本願寺、浜御殿、右手の南側は増上寺の杜、その先に品川の海まで収まっています。
愛宕山は眺望のよい場所で、江戸時代には、江戸市中が一望のもとに見渡せたのだそうです。
愛宕権現は江戸市民の崇敬厚く、また月の名所でもあったのだとか。

いま愛宕山は、中央をトンネルが穿ち、山肌は削られ、再開発によって二棟の巨大な高層ビルがそびえたち、ただわずかに、愛宕神社、NHK放送博物館周辺の森が、その面影を残すのみです。

月の名所だったという愛宕山に、夜、登ってみました。
愛宕グリーヒルズの裏手にある日本風庭園へ、不法侵入者のように恐る恐る分け入り、東屋にたって、ビルの隙間からやっとみえたのは、目の前に立ちはだかる、慈恵会医大の建物でした。


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そのせいでしょうか。
『JIN-仁-』のオープニングをみていると、「人の命」とか、「医とは何か」といったテーマはもちろんですが、それとは別に、なにか『逝きし世の面影』とでもいうような、なんとなく懐かしく、そして古い悲しい記憶を呼び起されたような気持ちに襲われました。

ベアトの写真は非常に有名で、これまで何度もメディアに取り上げられています。
また、こういった古写真を、同じアングルの現代の姿と重ね合わせるやり方は、別段新しい試みでもありません。
それでもやはり、この番組がベアトの写真を採用し、それを現代の東京と重ね合わせたのは正解だった、このドラマのテーマに対して、一つの重みを加えることに成功している、と私は思っています。


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愛宕グリーヒルズのうち、オフィス棟にあたるMORIタワー。以前は、ボーダフォン日本法人の本社機能がここに入っていて、私も仕事で何度か足を運んだのですが、いまはどこが入っているのでしょうか


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同じく、住居棟にあたるフォレストタワー。青松寺を挟むかたちで、MORIタワーと並立しています


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慈恵会医大附属病院のF棟。歴史を感じさせる建物です。これは別途に要調査。F棟周辺は旗本屋敷でした。手前の愛宕下通り(愛宕下広小路)には江戸時代、桜川が流れていました


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芝郵便局交差点。右に曲がると秋田小路。右手前のブロックには伊予松山藩上屋敷がありました

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by edohantei | 2009-11-09 02:41 | 藩邸探訪


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