藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ三・結)[武田大膳大夫下屋敷]
先の記事で、武田宗家のお屋敷は、幸橋門外(港区新橋2丁目15)のほかにもある、と書きました。

なぜ私は、屋敷の場所にこだわるのでしょう。
もちろん、江戸藩邸愛好者として、コレクター的に情報を集めたいという気持ちもあります。
でもいっぽうで、武田好きの方々に、戦国の勇壮な武田家とはちがった一面、江戸時代の武田宗家とその実相について多少なりともお伝えしたい、という思いもあるのです。
私は武田氏研究の専門家ではありませんが、多くの歴史本で、あたかも戦国時代に武田のすべてが終わってしまったかのような書かれ方をしているのは、少し残酷すぎる気がしています。

本題に戻りましょう。
果たしてもう一つのお屋敷は、東京タワーのすぐそばにありました。
港区芝公園3丁目6-7、オランダ大使館に隣接する、芝給水所公園運動場(サッカー場)の南側およそ半分が、かつての武田大膳大夫下屋敷です。
広さは、1191坪にもおよびました。

です、と言い切りましたが、実ははっきりしていない部分もあります。
資料により、この屋敷地の持ち主が、一定しないのです。

実際に、訪れてみました。
増上寺御成門のそばを通り、切通(きりとおし)と呼ばれた正則高校前の坂を上がって、オランダ大使館に突き当たると左におれる。すると、目の前に東京タワーと芝中・高のグランドが現れます。
右手が、芝給水所公園です。

中にはレンガ造りの建物が一部残されていました。壁面に「芝浄水池」と書かれたプレートと、旧東京市の市章がはめ込まれています。
ここは、東京でもっとも古い給水施設の名残なのです。

下部の銅板に「芝給水所の歴史」と説明があり、この施設は明治31年(1898)12月、淀橋浄水場から給水を受けるかたちで稼働を始めたのだそうです。
そしていまは、建物の地下が配水池となって渇水時などに備えられ、上部がサッカー場を中心とした公園として整備されているとのことでした。

しかし驚いたのは、説明板にハッキリと、この給水所が「信濃小諸藩主牧野遠江守康済(やすまさ)の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年に竣工した」と記してあったことです。

手元の資料を古い順に並べると、

・文政11年「分間江戸大繪図」
オランダ大使館と芝給水所の全域が、天保の改革で有名な遠江浜松藩・水野越前守忠邦の上屋敷

・天保14年「御江戸大繪図」
大和高取藩・植村出羽守の上屋敷と、タケ田(大膳大夫屋敷)

・安政年間の江戸を再現した「復元江戸情報地図」
同じく植村出羽守上屋敷と、武田大膳大夫下屋敷

・万延2年改訂の尾張屋版「江戸切絵図」
駿河沼津藩主・水野出羽守の上屋敷と武田大膳大夫屋敷

となっており、牧野遠江守の名前は登場しません。

いずれも歴代藩主に老中や若年寄を出した譜代藩ですから、役職の去就にともなって上屋敷の移動はあったでしょう。
また、最終的に出羽山形藩へ左遷された水野忠邦の家系と、沼津藩主水野出羽守の屋敷は、史料により混同もみられますので、間違いの可能性もあります。

ここに突然、牧野遠江守康済がでてくると、さすがに混乱してしまいます。安政年間まで、小諸藩牧野遠江守の上屋敷は浜町にあったはずなのです。
しかしよく調べてみると、有名なサイト「江戸大名公卿net」さんの情報に、文久年間に芝切通に移っていたとの記述がありました。

こんなに出入りの激しいのが事実だとしたら、芝切通は江戸城西ノ丸下の老中屋敷のように官舎的な役割を果たしていたのかもしれませんが、いずれにしても、少なくとも天保14年(1843)~万延2年(1861)の間、三つの資料で共通している武田大膳大夫(下)屋敷の存在は、確実とみていいのではないでしょうか。

こうしてみてくると、武田宗家は家禄わずか500石ながら上、下の屋敷をもち、代々表高家に列し、高家肝煎も務めるなど、儀礼的な役割とはいえ、幕府においても一定の位置を占めていたことがわかります。
しかしそれだけに財政はひっ迫していたようで、明治以降の没落ぶりは目を覆うものがあったとも聞きます。
いまこうして、末裔の方が健在でいらっしゃるのは、奇跡というべきことなのかもしれません。

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オランダ大使館。2008-2009年は、日本オランダ年だそうです

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芝給水所公園の入り口。事務所は、もとの建築を模してレンガ造り風になっていました

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残された芝浄水池のレリーフ。100年以上の歴史があります

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銅製の説明板が、芝給水所の歴史を語ります

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芝給水所公園運動場(サッカー場)。少年たちが紅白戦をやっていました

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# by edohantei | 2009-11-12 23:45 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ二)[武田大膳大夫居屋敷]
先の記事で触れたように、江戸時代の武田宗家は、5代将軍綱吉によって表高家へ格上げされました。
さらに、高家5代目の信典が、高家肝煎に任ぜられます。

「高家-肝煎(こうけ-きもいり)」というのは、『デジタル大辞泉』(小学館)によると「江戸幕府の高家のうち、三人で月番をつとめ、職務を主宰したもの」だそうです。
高家の職務は、朝廷や他国勅使への儀礼、幕府の公式行事を執り行うこと。それを束ねるのですから、名家ならではの仕事といっていいでしょう。

しかし、そうはいっても家禄は500石。
武田大膳大夫居屋敷の敷地は、当時の旗本屋敷としては、大きなものではなかったようです。
実際に周囲をぐるりと歩いてみましたが、東西およそ半町あまり(1町は約109メートル)、南北はさらにその半分といったところでしょうか。

西側は、新橋レンガ通り。江戸時代でいうところの愛宕ノ下大名小路です。通りの両側には、越後新発田藩溝口家、上野伊勢崎藩酒井家、陸奥一関藩田村家などの上屋敷が並んでいました。
おそらく、当時はこの新橋レンガ通り側に武田家居屋敷の表門があったのでしょう。
そして、屋敷址に現在建つものは……。

列挙してみます。

・居酒屋
・天丼屋チェーン店
・ビジネスホテル
・個室ビデオ観賞
・(強壮剤を前面に押し出した)薬局
・スキンヘッドのお兄さんが客引きを行う怪しげな店

うん、イイ感じです。

信玄公は、井上靖『風林火山』によって好色のイメージを定着させた感がありますが、いま屋敷地に立ってみると、まったくちがう景色ではありながら、どこかその家風をしのばせるような……。
などといったら、武田宗家と山梨県民の方々にお叱りを受けてしまいますね。

しかし、ここで江戸時代の武田宗家屋敷の探究を終わりにしてはいけません。
実をいうと、お屋敷はもう一つあったのでした。

其ノ三へつづく】

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武田宗家居屋敷跡地の眺め。個室ビデオの看板が目につきます

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こちらは、新橋レンガ通り側のようす。またここにも、個室ビデオが……

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さらに、薬局のセクシーな看板はインパクトがありますね

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新橋レンガ通り側にある、愛媛新聞東京支社のビル。このあたりからは、越後新発田藩溝口家の上屋敷地であったと思われます

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# by edohantei | 2009-11-10 02:39 | 藩邸探訪


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