藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ一)[武田大膳大夫居屋敷]
戦国末期、武田勝頼は天目山の戦いに敗れて自害し、源義光からつづく甲斐源氏武田家は滅亡した。
というのが、もっとも一般的な理解ですね。

しかし実は、勝頼の異母兄信親の子が生き延びており、子孫が江戸時代に武田宗家の再興を許され、今日まで続いている、というのが、ちょっと踏み込んだ理解です。

さらに踏み込むと、再興した武田宗家は柳沢吉保と縁が深く、江戸から明治にかけて、柳沢家から三度も養子を入れているため、武田宗家というよりは柳沢家に近い、ともいえます。

けれども、江戸時代の武田宗家は、どこに住んでいたのでしょうか。
それが、今回のテーマです。

JR新橋駅に、烏森口という出口があります。

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おやじの聖地・SL広場ではなく、もっと辺鄙な西新橋方面に向かう出口。

なぜ「烏森」なのか。現在の地名は、新橋2丁目です。
簡単にいえば、烏森神社というお社があるからです。この神社はお稲荷さんで、江戸時代には烏森稲荷と呼ばれていました。

烏森口をでてすぐ、西へ向かって「烏森通り」という道が伸びています。右手にかの有名な「NEWしんばしビル」を、左手にパチンコ屋の「TOPS」をみながら歩いていく道です。
朝日新聞社発行の『復元江戸情報地図』によると、この通りは江戸時代、烏森稲荷にちなんで「稲荷小路」と呼ばれていたようです。

「NEWしんばしビル」をすぎて、一つめのブロックに、ありました。
ほっそりと、烏森神社への参道がつづいていました。

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この神社、参道わきに甘味処あり、オリジナルの「色みくじ」あり、鳥居や社殿のかたちが変わっていたり、稲荷さんなのに狐がおらず狛犬だけだったり、町火消が奉納したとおぼしき「きやり塚(木遣り塚)」があったりと、小さいわりに見どころがたくさんあります(由緒等については別途)。
周囲の小道は飲み屋や料理屋が多く、歳の離れたカップルが肩を寄せ合っていたりして、神社の怪しさと繁華街のアヤしさが混ざり合い、素敵に猥雑な雰囲気を醸し出しています。

……と、なぜここまで延々烏森神社の話をしてきたかといえば、そのすぐ北側が、武田宗家の屋敷があった場所なのでした。
いささか前置き長し、ですがこの界隈の雰囲気を示すには、烏森神社の説明から入るのがわかりやすいのです。

中嶋繁雄氏の『戦国の雄と末裔たち』(平凡社新書)によれば、5代将軍綱吉の代になって柳沢吉保の嘆願があり、武田家は甲斐八代郡で新知500石を拝領。表高家(おもてこうけ)に叙され、「江戸城幸橋門外に宅地をあたえられた」そうです。

確かに、『もち歩き江戸東京散歩』(人文社)に掲載された尾張屋版・江戸切り絵図にも「武田大膳大夫」とあり、『復元江戸情報地図』にも、「高家肝煎・武田大膳大夫居屋敷」と掲載されています。
天保14年(1843)の「御江戸大繪図」には「河ノ/武田」、文政11年(1828)改訂の須原屋版「分間江戸大繪図」には「武田/ヨソ」と書かれていますが、これは別途検証するとして、ここ新橋2丁目15あたりに、武田家の居屋敷があったのは間違いないでしょう。

其の二へつづく】

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SL広場側から、烏森神社へ至る脇道。年の離れたカップル。この写真では肩を寄せ合ってはいないが

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烏森神社の鳥居と社殿。ユニークなかたちをしています。意外と人通りの多いところです

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境内では、きやり塚と狛犬が目に付きます

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「心願色みくじ」の奉納所。説明もあって、本格的

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社務所の脇をぬけて裏通りへでると、そこは料理屋やビストロが軒を並べる大人の通り。通は、こういったところへ通うのだろう

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# by edohantei | 2009-11-09 18:41 | 藩邸探訪
愛宕山の夜景~『JIN-仁ー』より[伊予松山藩上屋敷]
TBS日曜劇場の『JIN-仁ー』
オープニングのタイトルバックに広がるのは、幕末の慶応元(1865)年から2(1866)年にかけ、F.ベアトが撮影した、愛宕山からの眺めです。
すなわち、私たちが知ることのできる、数少ない本当の江戸の姿でもあります。
そこには、私の国許・伊予松山藩の上屋敷も写っています。

愛宕山から東を望んだベアトの写真は、5枚続きのパノラマビューになっていて、左手の北側は江戸城西ノ丸下あたりから、遠く築地本願寺、浜御殿、右手の南側は増上寺の杜、その先に品川の海まで収まっています。
愛宕山は眺望のよい場所で、江戸時代には、江戸市中が一望のもとに見渡せたのだそうです。
愛宕権現は江戸市民の崇敬厚く、また月の名所でもあったのだとか。

いま愛宕山は、中央をトンネルが穿ち、山肌は削られ、再開発によって二棟の巨大な高層ビルがそびえたち、ただわずかに、愛宕神社、NHK放送博物館周辺の森が、その面影を残すのみです。

月の名所だったという愛宕山に、夜、登ってみました。
愛宕グリーヒルズの裏手にある日本風庭園へ、不法侵入者のように恐る恐る分け入り、東屋にたって、ビルの隙間からやっとみえたのは、目の前に立ちはだかる、慈恵会医大の建物でした。


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そのせいでしょうか。
『JIN-仁-』のオープニングをみていると、「人の命」とか、「医とは何か」といったテーマはもちろんですが、それとは別に、なにか『逝きし世の面影』とでもいうような、なんとなく懐かしく、そして古い悲しい記憶を呼び起されたような気持ちに襲われました。

ベアトの写真は非常に有名で、これまで何度もメディアに取り上げられています。
また、こういった古写真を、同じアングルの現代の姿と重ね合わせるやり方は、別段新しい試みでもありません。
それでもやはり、この番組がベアトの写真を採用し、それを現代の東京と重ね合わせたのは正解だった、このドラマのテーマに対して、一つの重みを加えることに成功している、と私は思っています。


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愛宕グリーヒルズのうち、オフィス棟にあたるMORIタワー。以前は、ボーダフォン日本法人の本社機能がここに入っていて、私も仕事で何度か足を運んだのですが、いまはどこが入っているのでしょうか


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同じく、住居棟にあたるフォレストタワー。青松寺を挟むかたちで、MORIタワーと並立しています


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慈恵会医大附属病院のF棟。歴史を感じさせる建物です。これは別途に要調査。F棟周辺は旗本屋敷でした。手前の愛宕下通り(愛宕下広小路)には江戸時代、桜川が流れていました


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芝郵便局交差点。右に曲がると秋田小路。右手前のブロックには伊予松山藩上屋敷がありました

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# by edohantei | 2009-11-09 02:41 | 藩邸探訪


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