藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
江戸の派遣社員
派遣をはじめとする契約社員の方が、目にみえて増えてますね。
実は江戸後期から幕末にかけても、同じような現象がみられたそうです。

当時、江戸城に登下する大名たちが、彼を担いだまま駆け出す駕籠かきによって投げ出され、転倒するアクシデントが度々おきました。他藩の駕籠かきたちと先を争うっているうち、駆け足になってしまうのだそうですが、現場はさながら駕籠かきレースの様相を呈していたそうです。
というのも駕籠かき人には、短期契約の「渡り奉公人」と呼ばれる人が多く、血気盛んで腕自慢をしたがったのだとか。
殿様からみれば災難以外のなにものでもないですが、意外にも当人たちを罰することなく、状況を慮って止めるよう諭す藩もあったそうです。

五節句などの式日の際には、ざっくり270家くらいいる大名のほぼすべてが、行列を組んで江戸城に登城しなければいけませんでした。
しかも、行列の構成員がみんな城内に入れるわけではなく、多くは江戸城大手門、桜田門前の「下馬所」に残され、地べたにござをひいて主人の帰りをずーっと待っていなければならないのです。正直、ものスゴい人数になったでしょう。
さらに供回りの者を連れた大名は、城内に進み「下乗所」で駕籠を降ります。駕籠かきたちは、やっぱりそこで待たされるわけです。
渡り奉公人でなくとも、フラストレーションがたまってしかたなかったでしょうね。

それはさておき、荻生徂徠は、このように指摘しています。
「最近では一生奉公する譜代者がほとんど姿を消し、かわって一年ないしは半年契約で勤める出替り奉公人が大勢を占めている」
さらに、譜代奉公人が流行らなくなったのは、完全終身雇用なので、幼少から教育したり、老後を保障したり、なにかと効率的でないからだ、とも述べています(氏家幹人『殿様と鼠小僧』)。

ことの背景を考慮せずこの現象をみれば、契約社員の割合がどんどん高まっているいまの状況と、似ているのかもしれません。
幕末の藩といえばどこも財政難で、緊縮によるコストダウンや業務の効率化を余儀なくされていました。
徂徠が指摘したような現象がおこるのも当然といえば当然で、「会社の利益をあげるため、効率化とコストダウンをはかる」いまの企業と、「赤字解消のため効率化とコストダウンをはかる」幕末の藩、動機こそ異なるとはいえ、やっていることはいっしょだったともいえます。

いまの企業では、基幹業務を契約社員に依存しているところも多く、それでサービスのクオリティを落とさずに利益をだしている例も多々あるそうですね。
「ハケン」という言葉が一般的になり、テレビドラマでも派遣社員を主人公にしたものが増え、仕事・恋愛・人生について悩みながら生きていく彼らの姿を描いたものがあれば、なんでも快刀乱麻に解決するスーパー派遣が登場したりと、バラエティがでてきました。
それと比べると、藩のふところ事情が招いた「駕籠かきレース」、絵的にはなんとものどかで滑稽ですが、その後の幕藩体制崩壊という結末を考えると、単純には笑えないなぁ、という気もします。


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【写真:江戸城の大手門】

●出典:
氏家幹人『殿様と鼠小僧—老侯・松浦静山の世界』(中公新書)
氏家幹人『悠悠自適—老侯・松浦静山の世界』(平凡社ライブラリー)
平井聖/監修『大名と旗本の暮らし』(学研)

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# by edohantei | 2007-04-23 19:18 | 藩邸随想
北海道開拓と青山学院:藩邸イルミネーション2[西条藩上屋敷]
青山通りや表参道は、私にとって思い出深いところです。
東京ではじめていったクラブが、1996年当時、青山「ル・デコ」にあった(と記憶している)「PYLON」。南青山の「blue」という、ハウスやレアグルーブがよくかかるクラブにも通ったものです。
まだ20代も前半で、遊びたくてしょうがなかった私でした。

さて、クリスマス・イルミネーションといえば、キリスト教系学校も、毎年きれいに飾り付けられていますね。
私が大学生活を送った関西では、関西学院のイルミネーションが有名でしたが、東京では、立教大学のものがよく知られているようです。
残念ながら立教大学のキャンパスがある場所は、もと池袋村の畑地だったところなので、ここでは置き、藩邸ブログとしては、青山通り沿いにある青山学院大学キャンパスにフォーカスしてみたいと思います。

クリスマス前の青山通り、夜歩くと国連前も宮益坂も電飾で飾られ、さぶい心に益々拍車がかけられます。
青学前で門の中をみると、キャンパス奥のロータリーにそびえる樹の、鮮やかに彩られている姿が目に入りました。青学に、はじめて入ってみます。
確かにキレイだけれども、なんとなく原色過ぎてそらぞらしい光をながめながら、ふと、ここに青学が建ったいわれが気になりはじめました。

現在、青山学院大学が建っている敷地は、江戸時代には伊予西条藩松平家の上屋敷でした。
西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。

維新の興奮も冷めやらぬ明治4年(1871)、西条藩上屋敷跡地4万坪のうち約3万坪は、北海道開拓使の第1官園となります。
東京に3つあった開拓使官園は、いまでいう農業試験場のようなもので、第1、第2官園では野菜・果樹類を育て、第3官園では牧畜、牧草の育成をおこなっていました。
当時、青山や渋谷はまだまだ田畑の広がるのどかな郊外で、西条藩上屋敷は、江戸時代に霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにありましたが、版籍奉還、廃藩置県によって大名が立ち退いたあとは、広大な敷地をぜいたくに使うえるような状況になっていました。

開拓使官園が早々と北海道に移転したあと、空いた敷地に目をつけたのが、合併をめざして新校地を探していた2つのキリスト教系学校です。横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」で、これがのちに青山学院大学の原形となります。
彼らは明治15年(1882)に、総額6千円で念願の校地を購入し、それ以来、青山の地は青山学院大学の中心となったのです(現在の区画では、渋谷区渋谷3丁目となっています)。

そこで思い当たったのが、青学創設者と、北海道開拓使との関係です。
創設に、日本人として貢献したのは、明治初期の有名なキリスト教学者であり、最初の女子留学生・津田梅(梅子)の父である津田仙(つだ・せん)でした。
彼は佐倉藩家臣の家に生まれ、明治初期の農学者で、クリスチャン。教育に傾けた情熱は並々ならぬものがあり、自身も幕府使節とウイーン使節団の二度に渡って洋行し、西欧諸国から多くのことを学んでいます。そして、自身の娘も留学させるフロンティアぶりでした。
現在ではキリスト教精神にもとづく教育者としての業績がよく知られていますが、北海道開拓使の発足当初は嘱託を受けて働き、また、民部省にも勤めています。

ここで、さきほどの官園の話にもどってみましょう。
開拓使の官園は、都内に3つあったといいましたが、そのうち第3官園は、もと佐倉藩堀田家の下屋敷です。用地選定のさい、佐倉藩士であった津田の働きがあった可能性も考えられますね。
さらに、第1官園跡地を青学のキャンパスとして選定するにあたっては、開拓使にも勤めた津田の協力があったのかもしれません。

そう考えると、青学が青山の地に根づくには、偶然でなくひとつの流れのようなものがあったように思えてきます。
なんだか、藩邸とイルミネーションの関係とは、まったく関係ないような話になってしまいましたが、おしゃれな青山と江戸藩邸が無縁でなく、二つを結ぶ線が確かに存在していたことだけは、おわかりいただけたかと思います。
西条藩上屋敷については、その周辺も含めて興味深いところがあるので、また調べてみたいと思います。d0121045_1325204.jpg
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# by edohantei | 2006-12-23 23:00 | 藩邸探訪


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