藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
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武田宗家は江戸時代どこに(其ノ二)[武田大膳大夫居屋敷]
先の記事で触れたように、江戸時代の武田宗家は、5代将軍綱吉によって表高家へ格上げされました。
さらに、高家5代目の信典が、高家肝煎に任ぜられます。

「高家-肝煎(こうけ-きもいり)」というのは、『デジタル大辞泉』(小学館)によると「江戸幕府の高家のうち、三人で月番をつとめ、職務を主宰したもの」だそうです。
高家の職務は、朝廷や他国勅使への儀礼、幕府の公式行事を執り行うこと。それを束ねるのですから、名家ならではの仕事といっていいでしょう。

しかし、そうはいっても家禄は500石。
武田大膳大夫居屋敷の敷地は、当時の旗本屋敷としては、大きなものではなかったようです。
実際に周囲をぐるりと歩いてみましたが、東西およそ半町あまり(1町は約109メートル)、南北はさらにその半分といったところでしょうか。

西側は、新橋レンガ通り。江戸時代でいうところの愛宕ノ下大名小路です。通りの両側には、越後新発田藩溝口家、上野伊勢崎藩酒井家、陸奥一関藩田村家などの上屋敷が並んでいました。
おそらく、当時はこの新橋レンガ通り側に武田家居屋敷の表門があったのでしょう。
そして、屋敷址に現在建つものは……。

列挙してみます。

・居酒屋
・天丼屋チェーン店
・ビジネスホテル
・個室ビデオ観賞
・(強壮剤を前面に押し出した)薬局
・スキンヘッドのお兄さんが客引きを行う怪しげな店

うん、イイ感じです。

信玄公は、井上靖『風林火山』によって好色のイメージを定着させた感がありますが、いま屋敷地に立ってみると、まったくちがう景色ではありながら、どこかその家風をしのばせるような……。
などといったら、武田宗家と山梨県民の方々にお叱りを受けてしまいますね。

しかし、ここで江戸時代の武田宗家屋敷の探究を終わりにしてはいけません。
実をいうと、お屋敷はもう一つあったのでした。

其ノ三へつづく】

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武田宗家居屋敷跡地の眺め。個室ビデオの看板が目につきます

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こちらは、新橋レンガ通り側のようす。またここにも、個室ビデオが……

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さらに、薬局のセクシーな看板はインパクトがありますね

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新橋レンガ通り側にある、愛媛新聞東京支社のビル。このあたりからは、越後新発田藩溝口家の上屋敷地であったと思われます

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by edohantei | 2009-11-10 02:39 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ一)[武田大膳大夫居屋敷]
戦国末期、武田勝頼は天目山の戦いに敗れて自害し、源義光からつづく甲斐源氏武田家は滅亡した。
というのが、もっとも一般的な理解ですね。

しかし実は、勝頼の異母兄信親の子が生き延びており、子孫が江戸時代に武田宗家の再興を許され、今日まで続いている、というのが、ちょっと踏み込んだ理解です。

さらに踏み込むと、再興した武田宗家は柳沢吉保と縁が深く、江戸から明治にかけて、柳沢家から三度も養子を入れているため、武田宗家というよりは柳沢家に近い、ともいえます。

けれども、江戸時代の武田宗家は、どこに住んでいたのでしょうか。
それが、今回のテーマです。

JR新橋駅に、烏森口という出口があります。

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おやじの聖地・SL広場ではなく、もっと辺鄙な西新橋方面に向かう出口。

なぜ「烏森」なのか。現在の地名は、新橋2丁目です。
簡単にいえば、烏森神社というお社があるからです。この神社はお稲荷さんで、江戸時代には烏森稲荷と呼ばれていました。

烏森口をでてすぐ、西へ向かって「烏森通り」という道が伸びています。右手にかの有名な「NEWしんばしビル」を、左手にパチンコ屋の「TOPS」をみながら歩いていく道です。
朝日新聞社発行の『復元江戸情報地図』によると、この通りは江戸時代、烏森稲荷にちなんで「稲荷小路」と呼ばれていたようです。

「NEWしんばしビル」をすぎて、一つめのブロックに、ありました。
ほっそりと、烏森神社への参道がつづいていました。

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この神社、参道わきに甘味処あり、オリジナルの「色みくじ」あり、鳥居や社殿のかたちが変わっていたり、稲荷さんなのに狐がおらず狛犬だけだったり、町火消が奉納したとおぼしき「きやり塚(木遣り塚)」があったりと、小さいわりに見どころがたくさんあります(由緒等については別途)。
周囲の小道は飲み屋や料理屋が多く、歳の離れたカップルが肩を寄せ合っていたりして、神社の怪しさと繁華街のアヤしさが混ざり合い、素敵に猥雑な雰囲気を醸し出しています。

……と、なぜここまで延々烏森神社の話をしてきたかといえば、そのすぐ北側が、武田宗家の屋敷があった場所なのでした。
いささか前置き長し、ですがこの界隈の雰囲気を示すには、烏森神社の説明から入るのがわかりやすいのです。

中嶋繁雄氏の『戦国の雄と末裔たち』(平凡社新書)によれば、5代将軍綱吉の代になって柳沢吉保の嘆願があり、武田家は甲斐八代郡で新知500石を拝領。表高家(おもてこうけ)に叙され、「江戸城幸橋門外に宅地をあたえられた」そうです。

確かに、『もち歩き江戸東京散歩』(人文社)に掲載された尾張屋版・江戸切り絵図にも「武田大膳大夫」とあり、『復元江戸情報地図』にも、「高家肝煎・武田大膳大夫居屋敷」と掲載されています。
天保14年(1843)の「御江戸大繪図」には「河ノ/武田」、文政11年(1828)改訂の須原屋版「分間江戸大繪図」には「武田/ヨソ」と書かれていますが、これは別途検証するとして、ここ新橋2丁目15あたりに、武田家の居屋敷があったのは間違いないでしょう。

其の二へつづく】

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SL広場側から、烏森神社へ至る脇道。年の離れたカップル。この写真では肩を寄せ合ってはいないが

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烏森神社の鳥居と社殿。ユニークなかたちをしています。意外と人通りの多いところです

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境内では、きやり塚と狛犬が目に付きます

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「心願色みくじ」の奉納所。説明もあって、本格的

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社務所の脇をぬけて裏通りへでると、そこは料理屋やビストロが軒を並べる大人の通り。通は、こういったところへ通うのだろう

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by edohantei | 2009-11-09 18:41 | 藩邸探訪


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