藩邸クロスオーヴァー

江戸の大名屋敷(江戸藩邸)址は、地方出身者と東京を結び、東京の昔といまを結んでくれる接点です。
カテゴリ:藩邸探訪( 8 )
真田殿の上屋敷を訪ねる[松代藩上屋敷]
先の記事で、松代藩真田家上屋敷について触れたので、実際にいってきました。

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経済産業省別館

住所は、千代田区霞が関1丁目3-1。
現在は、経済産業省別館が建ち、資源エネルギー庁、中小企業庁、経済産業研究所などが入っています。
しかもこの地は、明治23年(1,890)11月、第1回帝国議会が行なわれた議事堂の跡地でもあるのです。
祝田通り沿いの歩道に、そのことを示す古びた立て札がありました。
まさに、近現代日本政治の中心地といえますね。

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帝国議会議事堂跡を示す由来板

信濃最大の石高(10万石)をもつ松代藩ですが、幕府要職を務める譜代諸藩や、福岡藩黒田家、長州(萩)藩毛利家などの大身外様諸藩が立ち並ぶ中に屋敷地をもてたのは、特筆すべきことかもしれません。
一般には外様大名と思われていますが、徳川家と縁戚関係があり、江戸後期には、親藩・譜代の養子を入れて老中もだすなど、譜代格というべき存在だったことが、関係しているのかもしれません。

それにしても、どうでしょう。
かほど人気のある真田家の上屋敷跡地に、それを示す立て札一つないというのは、さみしい話です。
近くの米沢藩上屋敷跡には、立派な記念碑が立っているのですが……。

なお、松代藩中屋敷の建物が長野県上田市のホテルに移築され、また藤沢市の龍口寺にも藩邸の建造物が移されているそうです。

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◆信濃松代藩真田家
上屋敷:外櫻田(霞ヶ関、新シ橋の内)→千代田区霞が関1丁目3-1
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by edohantei | 2009-11-24 08:33 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ三・結)[武田大膳大夫下屋敷]
先の記事で、武田宗家のお屋敷は、幸橋門外(港区新橋2丁目15)のほかにもある、と書きました。

なぜ私は、屋敷の場所にこだわるのでしょう。
もちろん、江戸藩邸愛好者として、コレクター的に情報を集めたいという気持ちもあります。
でもいっぽうで、武田好きの方々に、戦国の勇壮な武田家とはちがった一面、江戸時代の武田宗家とその実相について多少なりともお伝えしたい、という思いもあるのです。
私は武田氏研究の専門家ではありませんが、多くの歴史本で、あたかも戦国時代に武田のすべてが終わってしまったかのような書かれ方をしているのは、少し残酷すぎる気がしています。

本題に戻りましょう。
果たしてもう一つのお屋敷は、東京タワーのすぐそばにありました。
港区芝公園3丁目6-7、オランダ大使館に隣接する、芝給水所公園運動場(サッカー場)の南側およそ半分が、かつての武田大膳大夫下屋敷です。
広さは、1191坪にもおよびました。

です、と言い切りましたが、実ははっきりしていない部分もあります。
資料により、この屋敷地の持ち主が、一定しないのです。

実際に、訪れてみました。
増上寺御成門のそばを通り、切通(きりとおし)と呼ばれた正則高校前の坂を上がって、オランダ大使館に突き当たると左におれる。すると、目の前に東京タワーと芝中・高のグランドが現れます。
右手が、芝給水所公園です。

中にはレンガ造りの建物が一部残されていました。壁面に「芝浄水池」と書かれたプレートと、旧東京市の市章がはめ込まれています。
ここは、東京でもっとも古い給水施設の名残なのです。

下部の銅板に「芝給水所の歴史」と説明があり、この施設は明治31年(1898)12月、淀橋浄水場から給水を受けるかたちで稼働を始めたのだそうです。
そしていまは、建物の地下が配水池となって渇水時などに備えられ、上部がサッカー場を中心とした公園として整備されているとのことでした。

しかし驚いたのは、説明板にハッキリと、この給水所が「信濃小諸藩主牧野遠江守康済(やすまさ)の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年に竣工した」と記してあったことです。

手元の資料を古い順に並べると、

・文政11年「分間江戸大繪図」
オランダ大使館と芝給水所の全域が、天保の改革で有名な遠江浜松藩・水野越前守忠邦の上屋敷

・天保14年「御江戸大繪図」
大和高取藩・植村出羽守の上屋敷と、タケ田(大膳大夫屋敷)

・安政年間の江戸を再現した「復元江戸情報地図」
同じく植村出羽守上屋敷と、武田大膳大夫下屋敷

・万延2年改訂の尾張屋版「江戸切絵図」
駿河沼津藩主・水野出羽守の上屋敷と武田大膳大夫屋敷

となっており、牧野遠江守の名前は登場しません。

いずれも歴代藩主に老中や若年寄を出した譜代藩ですから、役職の去就にともなって上屋敷の移動はあったでしょう。
また、最終的に出羽山形藩へ左遷された水野忠邦の家系と、沼津藩主水野出羽守の屋敷は、史料により混同もみられますので、間違いの可能性もあります。

ここに突然、牧野遠江守康済がでてくると、さすがに混乱してしまいます。安政年間まで、小諸藩牧野遠江守の上屋敷は浜町にあったはずなのです。
しかしよく調べてみると、有名なサイト「江戸大名公卿net」さんの情報に、文久年間に芝切通に移っていたとの記述がありました。

こんなに出入りの激しいのが事実だとしたら、芝切通は江戸城西ノ丸下の老中屋敷のように官舎的な役割を果たしていたのかもしれませんが、いずれにしても、少なくとも天保14年(1843)~万延2年(1861)の間、三つの資料で共通している武田大膳大夫(下)屋敷の存在は、確実とみていいのではないでしょうか。

こうしてみてくると、武田宗家は家禄わずか500石ながら上、下の屋敷をもち、代々表高家に列し、高家肝煎も務めるなど、儀礼的な役割とはいえ、幕府においても一定の位置を占めていたことがわかります。
しかしそれだけに財政はひっ迫していたようで、明治以降の没落ぶりは目を覆うものがあったとも聞きます。
いまこうして、末裔の方が健在でいらっしゃるのは、奇跡というべきことなのかもしれません。

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オランダ大使館。2008-2009年は、日本オランダ年だそうです

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芝給水所公園の入り口。事務所は、もとの建築を模してレンガ造り風になっていました

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残された芝浄水池のレリーフ。100年以上の歴史があります

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銅製の説明板が、芝給水所の歴史を語ります

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芝給水所公園運動場(サッカー場)。少年たちが紅白戦をやっていました

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by edohantei | 2009-11-12 23:45 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ二)[武田大膳大夫居屋敷]
先の記事で触れたように、江戸時代の武田宗家は、5代将軍綱吉によって表高家へ格上げされました。
さらに、高家5代目の信典が、高家肝煎に任ぜられます。

「高家-肝煎(こうけ-きもいり)」というのは、『デジタル大辞泉』(小学館)によると「江戸幕府の高家のうち、三人で月番をつとめ、職務を主宰したもの」だそうです。
高家の職務は、朝廷や他国勅使への儀礼、幕府の公式行事を執り行うこと。それを束ねるのですから、名家ならではの仕事といっていいでしょう。

しかし、そうはいっても家禄は500石。
武田大膳大夫居屋敷の敷地は、当時の旗本屋敷としては、大きなものではなかったようです。
実際に周囲をぐるりと歩いてみましたが、東西およそ半町あまり(1町は約109メートル)、南北はさらにその半分といったところでしょうか。

西側は、新橋レンガ通り。江戸時代でいうところの愛宕ノ下大名小路です。通りの両側には、越後新発田藩溝口家、上野伊勢崎藩酒井家、陸奥一関藩田村家などの上屋敷が並んでいました。
おそらく、当時はこの新橋レンガ通り側に武田家居屋敷の表門があったのでしょう。
そして、屋敷址に現在建つものは……。

列挙してみます。

・居酒屋
・天丼屋チェーン店
・ビジネスホテル
・個室ビデオ観賞
・(強壮剤を前面に押し出した)薬局
・スキンヘッドのお兄さんが客引きを行う怪しげな店

うん、イイ感じです。

信玄公は、井上靖『風林火山』によって好色のイメージを定着させた感がありますが、いま屋敷地に立ってみると、まったくちがう景色ではありながら、どこかその家風をしのばせるような……。
などといったら、武田宗家と山梨県民の方々にお叱りを受けてしまいますね。

しかし、ここで江戸時代の武田宗家屋敷の探究を終わりにしてはいけません。
実をいうと、お屋敷はもう一つあったのでした。

其ノ三へつづく】

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武田宗家居屋敷跡地の眺め。個室ビデオの看板が目につきます

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こちらは、新橋レンガ通り側のようす。またここにも、個室ビデオが……

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さらに、薬局のセクシーな看板はインパクトがありますね

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新橋レンガ通り側にある、愛媛新聞東京支社のビル。このあたりからは、越後新発田藩溝口家の上屋敷地であったと思われます

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by edohantei | 2009-11-10 02:39 | 藩邸探訪
武田宗家は江戸時代どこに(其ノ一)[武田大膳大夫居屋敷]
戦国末期、武田勝頼は天目山の戦いに敗れて自害し、源義光からつづく甲斐源氏武田家は滅亡した。
というのが、もっとも一般的な理解ですね。

しかし実は、勝頼の異母兄信親の子が生き延びており、子孫が江戸時代に武田宗家の再興を許され、今日まで続いている、というのが、ちょっと踏み込んだ理解です。

さらに踏み込むと、再興した武田宗家は柳沢吉保と縁が深く、江戸から明治にかけて、柳沢家から三度も養子を入れているため、武田宗家というよりは柳沢家に近い、ともいえます。

けれども、江戸時代の武田宗家は、どこに住んでいたのでしょうか。
それが、今回のテーマです。

JR新橋駅に、烏森口という出口があります。

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おやじの聖地・SL広場ではなく、もっと辺鄙な西新橋方面に向かう出口。

なぜ「烏森」なのか。現在の地名は、新橋2丁目です。
簡単にいえば、烏森神社というお社があるからです。この神社はお稲荷さんで、江戸時代には烏森稲荷と呼ばれていました。

烏森口をでてすぐ、西へ向かって「烏森通り」という道が伸びています。右手にかの有名な「NEWしんばしビル」を、左手にパチンコ屋の「TOPS」をみながら歩いていく道です。
朝日新聞社発行の『復元江戸情報地図』によると、この通りは江戸時代、烏森稲荷にちなんで「稲荷小路」と呼ばれていたようです。

「NEWしんばしビル」をすぎて、一つめのブロックに、ありました。
ほっそりと、烏森神社への参道がつづいていました。

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この神社、参道わきに甘味処あり、オリジナルの「色みくじ」あり、鳥居や社殿のかたちが変わっていたり、稲荷さんなのに狐がおらず狛犬だけだったり、町火消が奉納したとおぼしき「きやり塚(木遣り塚)」があったりと、小さいわりに見どころがたくさんあります(由緒等については別途)。
周囲の小道は飲み屋や料理屋が多く、歳の離れたカップルが肩を寄せ合っていたりして、神社の怪しさと繁華街のアヤしさが混ざり合い、素敵に猥雑な雰囲気を醸し出しています。

……と、なぜここまで延々烏森神社の話をしてきたかといえば、そのすぐ北側が、武田宗家の屋敷があった場所なのでした。
いささか前置き長し、ですがこの界隈の雰囲気を示すには、烏森神社の説明から入るのがわかりやすいのです。

中嶋繁雄氏の『戦国の雄と末裔たち』(平凡社新書)によれば、5代将軍綱吉の代になって柳沢吉保の嘆願があり、武田家は甲斐八代郡で新知500石を拝領。表高家(おもてこうけ)に叙され、「江戸城幸橋門外に宅地をあたえられた」そうです。

確かに、『もち歩き江戸東京散歩』(人文社)に掲載された尾張屋版・江戸切り絵図にも「武田大膳大夫」とあり、『復元江戸情報地図』にも、「高家肝煎・武田大膳大夫居屋敷」と掲載されています。
天保14年(1843)の「御江戸大繪図」には「河ノ/武田」、文政11年(1828)改訂の須原屋版「分間江戸大繪図」には「武田/ヨソ」と書かれていますが、これは別途検証するとして、ここ新橋2丁目15あたりに、武田家の居屋敷があったのは間違いないでしょう。

其の二へつづく】

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SL広場側から、烏森神社へ至る脇道。年の離れたカップル。この写真では肩を寄せ合ってはいないが

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烏森神社の鳥居と社殿。ユニークなかたちをしています。意外と人通りの多いところです

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境内では、きやり塚と狛犬が目に付きます

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「心願色みくじ」の奉納所。説明もあって、本格的

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社務所の脇をぬけて裏通りへでると、そこは料理屋やビストロが軒を並べる大人の通り。通は、こういったところへ通うのだろう

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by edohantei | 2009-11-09 18:41 | 藩邸探訪
愛宕山の夜景~『JIN-仁ー』より[伊予松山藩上屋敷]
TBS日曜劇場の『JIN-仁ー』
オープニングのタイトルバックに広がるのは、幕末の慶応元(1865)年から2(1866)年にかけ、F.ベアトが撮影した、愛宕山からの眺めです。
すなわち、私たちが知ることのできる、数少ない本当の江戸の姿でもあります。
そこには、私の国許・伊予松山藩の上屋敷も写っています。

愛宕山から東を望んだベアトの写真は、5枚続きのパノラマビューになっていて、左手の北側は江戸城西ノ丸下あたりから、遠く築地本願寺、浜御殿、右手の南側は増上寺の杜、その先に品川の海まで収まっています。
愛宕山は眺望のよい場所で、江戸時代には、江戸市中が一望のもとに見渡せたのだそうです。
愛宕権現は江戸市民の崇敬厚く、また月の名所でもあったのだとか。

いま愛宕山は、中央をトンネルが穿ち、山肌は削られ、再開発によって二棟の巨大な高層ビルがそびえたち、ただわずかに、愛宕神社、NHK放送博物館周辺の森が、その面影を残すのみです。

月の名所だったという愛宕山に、夜、登ってみました。
愛宕グリーヒルズの裏手にある日本風庭園へ、不法侵入者のように恐る恐る分け入り、東屋にたって、ビルの隙間からやっとみえたのは、目の前に立ちはだかる、慈恵会医大の建物でした。


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そのせいでしょうか。
『JIN-仁-』のオープニングをみていると、「人の命」とか、「医とは何か」といったテーマはもちろんですが、それとは別に、なにか『逝きし世の面影』とでもいうような、なんとなく懐かしく、そして古い悲しい記憶を呼び起されたような気持ちに襲われました。

ベアトの写真は非常に有名で、これまで何度もメディアに取り上げられています。
また、こういった古写真を、同じアングルの現代の姿と重ね合わせるやり方は、別段新しい試みでもありません。
それでもやはり、この番組がベアトの写真を採用し、それを現代の東京と重ね合わせたのは正解だった、このドラマのテーマに対して、一つの重みを加えることに成功している、と私は思っています。


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愛宕グリーヒルズのうち、オフィス棟にあたるMORIタワー。以前は、ボーダフォン日本法人の本社機能がここに入っていて、私も仕事で何度か足を運んだのですが、いまはどこが入っているのでしょうか


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同じく、住居棟にあたるフォレストタワー。青松寺を挟むかたちで、MORIタワーと並立しています


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慈恵会医大附属病院のF棟。歴史を感じさせる建物です。これは別途に要調査。F棟周辺は旗本屋敷でした。手前の愛宕下通り(愛宕下広小路)には江戸時代、桜川が流れていました


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芝郵便局交差点。右に曲がると秋田小路。右手前のブロックには伊予松山藩上屋敷がありました

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by edohantei | 2009-11-09 02:41 | 藩邸探訪
ヘンリー・ダーガー×東京ミッドタウン[長州藩中屋敷]
田舎から遊びにきていた妹の蛮行につきあい、原美術館で最終日の『ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語−夢の楽園』をみました。

原美術館は現代アート専門。古いもんばかりみてる小生は、初訪問です。

↓Flash(R)ばかりの公式HPはコチラ
【原美術館】
http://www.haramuseum.or.jp/

場所は、江戸時代でいうと御殿山の裏手、北品川宿のはずれ(鳥取藩池田家下屋敷の東側)にあたります。
美術館の建物は、渡辺仁(わたなべ・じん)による戦前の作で、当時から改装されているとはいえ、張り出し窓や半螺旋階段があり、結構モダンなつくりでした。

ヘンリー・ダーガーは、アメリカの作家/画家。1973年、81歳で死ぬまで、作品を発表することもなく創作活動に没頭した人で、今回の展示はほとんどが、ダーガー自身の長編物語を題材にした、ファンタジー&倒錯的な絵でした。

『美術手帖』かなにかで紹介されてから人気がでたらしく、最終日ということもあって、館内は意外に混み合ってます。
小生は、あんまり興味を感じませんでしたが、絵のパーツ、パーツには面白さがありました。ものはまったくちがうのに、同時代だからか、ノーマン・ロックウェルを思わせるのです(ダーガーがいろいろな印刷物からパーツをトレースしたせいか)。

追記:もしかロバート・マックロスキー、マージョリー・フラックとか。これも戦前・戦後のアメリカの作家だから?

でも結局、彼の長編物語自体が、未整理かつ未完のものなのだから、作品の意味づけとかを考えても意味のないことで、こういう絵は好みで観るもんなんだろうなと思いながら、ふんふん眺めました。

原美術館のあとは、六本木に移動です。
まだいったことのないミッドタウン内で昼飯をとることもなく、六本木交差点近くの古い喫茶店でクラブハウスサンドを食べて、妹と別れ、あとは独りで散歩。
麻布三河台町から、檜町公園、赤坂氷川神社の境内をぬけ、赤坂駅まで歩きました。

檜町公園も含め、ミッドタウン一帯は、長州藩毛利家の下/中屋敷址にあたります。
昨年、小生が仕事のため、檜町公園を訪れたときは、ミッドタウン開発にともなって屋敷庭園の遺構がことごとく撤去されており、泣きながら帰ったのですが、再訪してみると、わけのわかんない日本風庭園が造成されていました。
公園の由来を教えてくれる案内板もありません。

【檜町公園】
http://www.tokyo-midtown.com/jp/town_navi/green/
※東京ミッドタウンの説明によると、「昔と変わらぬ『日本の美』を彩ってい」るそうです。

ヒルズの毛利庭園のほうが、偽物にしてもまだマシかもね(また愚痴に…)。
これで、東京における毛利家の大名屋敷は、痕跡をすべて奪われたことになります。

しかし、このへんもあなどれない。
ちょっと裏通りに入ると、恐ろしく蔓の絡まった民家あり、鬼平の生家址あり、勝海舟邸址あり、三次藩の樹叢が残る赤坂氷川神社あり…と、都内漂流のネタには事欠きません。

東京の新スポットは、まず裏から回るべし、と声を大にしていいたい、こともないけど、まぁそんなことを感じた小生でした。

…でもホントはね、ミッドタウンごたる話題のスポットが怖いのです。助けて〜。


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【写真上:新・檜町公園のオブジェ】

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【写真中:新・檜町公園の日本風庭園】

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【写真下:赤坂氷川神社境内】

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by edohantei | 2007-07-16 23:57 | 藩邸探訪
北海道開拓と青山学院:藩邸イルミネーション2[西条藩上屋敷]
青山通りや表参道は、私にとって思い出深いところです。
東京ではじめていったクラブが、1996年当時、青山「ル・デコ」にあった(と記憶している)「PYLON」。南青山の「blue」という、ハウスやレアグルーブがよくかかるクラブにも通ったものです。
まだ20代も前半で、遊びたくてしょうがなかった私でした。

さて、クリスマス・イルミネーションといえば、キリスト教系学校も、毎年きれいに飾り付けられていますね。
私が大学生活を送った関西では、関西学院のイルミネーションが有名でしたが、東京では、立教大学のものがよく知られているようです。
残念ながら立教大学のキャンパスがある場所は、もと池袋村の畑地だったところなので、ここでは置き、藩邸ブログとしては、青山通り沿いにある青山学院大学キャンパスにフォーカスしてみたいと思います。

クリスマス前の青山通り、夜歩くと国連前も宮益坂も電飾で飾られ、さぶい心に益々拍車がかけられます。
青学前で門の中をみると、キャンパス奥のロータリーにそびえる樹の、鮮やかに彩られている姿が目に入りました。青学に、はじめて入ってみます。
確かにキレイだけれども、なんとなく原色過ぎてそらぞらしい光をながめながら、ふと、ここに青学が建ったいわれが気になりはじめました。

現在、青山学院大学が建っている敷地は、江戸時代には伊予西条藩松平家の上屋敷でした。
西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。

維新の興奮も冷めやらぬ明治4年(1871)、西条藩上屋敷跡地4万坪のうち約3万坪は、北海道開拓使の第1官園となります。
東京に3つあった開拓使官園は、いまでいう農業試験場のようなもので、第1、第2官園では野菜・果樹類を育て、第3官園では牧畜、牧草の育成をおこなっていました。
当時、青山や渋谷はまだまだ田畑の広がるのどかな郊外で、西条藩上屋敷は、江戸時代に霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにありましたが、版籍奉還、廃藩置県によって大名が立ち退いたあとは、広大な敷地をぜいたくに使うえるような状況になっていました。

開拓使官園が早々と北海道に移転したあと、空いた敷地に目をつけたのが、合併をめざして新校地を探していた2つのキリスト教系学校です。横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」で、これがのちに青山学院大学の原形となります。
彼らは明治15年(1882)に、総額6千円で念願の校地を購入し、それ以来、青山の地は青山学院大学の中心となったのです(現在の区画では、渋谷区渋谷3丁目となっています)。

そこで思い当たったのが、青学創設者と、北海道開拓使との関係です。
創設に、日本人として貢献したのは、明治初期の有名なキリスト教学者であり、最初の女子留学生・津田梅(梅子)の父である津田仙(つだ・せん)でした。
彼は佐倉藩家臣の家に生まれ、明治初期の農学者で、クリスチャン。教育に傾けた情熱は並々ならぬものがあり、自身も幕府使節とウイーン使節団の二度に渡って洋行し、西欧諸国から多くのことを学んでいます。そして、自身の娘も留学させるフロンティアぶりでした。
現在ではキリスト教精神にもとづく教育者としての業績がよく知られていますが、北海道開拓使の発足当初は嘱託を受けて働き、また、民部省にも勤めています。

ここで、さきほどの官園の話にもどってみましょう。
開拓使の官園は、都内に3つあったといいましたが、そのうち第3官園は、もと佐倉藩堀田家の下屋敷です。用地選定のさい、佐倉藩士であった津田の働きがあった可能性も考えられますね。
さらに、第1官園跡地を青学のキャンパスとして選定するにあたっては、開拓使にも勤めた津田の協力があったのかもしれません。

そう考えると、青学が青山の地に根づくには、偶然でなくひとつの流れのようなものがあったように思えてきます。
なんだか、藩邸とイルミネーションの関係とは、まったく関係ないような話になってしまいましたが、おしゃれな青山と江戸藩邸が無縁でなく、二つを結ぶ線が確かに存在していたことだけは、おわかりいただけたかと思います。
西条藩上屋敷については、その周辺も含めて興味深いところがあるので、また調べてみたいと思います。d0121045_1325204.jpg
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by edohantei | 2006-12-23 23:00 | 藩邸探訪
藩邸イルミネーション[小倉藩、熊本藩上屋敷]
今週末(「神様は七日目にお休みになられた」という賛美歌にちなみ、俺は日曜も週末に含む)は、もうはやクリスマス・イヴ。
クリスマス前の数週間、つまり、ちょうどいまの時期を西洋の世界では「アドヴェントゥス(ラテン語読みで)」というらしいですが(日本語では待降節、降臨節とも)、街はイルミネーションやら難儀な話ですね。
小生、ここ数カ月の週末は、神田駅か東京駅から帰宅することが多いのですが、夜、家路を急ぎつつ大手町〜丸の内あたりを歩いていると、この無味乾燥なビジネス街にも、とこどこイルミがきらめきよります。

…しかしアナタたち! そこの職場恋愛にいそしむカップルたちよ!
輝くイルミをうっとり眺めながら、まさにその場所が、大名屋敷の址であったことに思いをはせる人が、どれほどいらっしゃいますでしょうか!!!

ということで、ここしばらくは、「藩邸(大名屋敷)址と、そこに輝くクリスマス・イルミネーションの関係」を考察してみたいと思います。

まず第1回は、かつて親藩・譜代の上屋敷がひしめいて華やかなりし「大名小路」、つまり皇居外苑、大手町、丸の内界隈から。

小生は帰宅時、江戸時代にはなかった鎌倉橋を大手町方面に渡り、鶴岡藩(山形県):酒井左衛門尉上屋敷址の日経新聞本社を右手にみながら、東京駅へワシワシあるっていくわけですが、界隈で目立つのは、やっぱり産経新聞前の広場にあるマイクロソフト提供のクリスマスツリー(写真上)。ここは、小倉藩(福岡県):小笠原左京大夫上屋敷址です。

クリスマス・イルミにも流行があり、ここ数年はブルー×シルバー(ホワイト?)が主流のようですが、さすが都心は安易なものにはしないね。
ごらんのように、ツリーの周りは赤・青・白の微細なランプをちりばめたものです。
煎茶道など礼法に秀でた小笠原氏ならではの趣味よのぅ〜(関連はないが)。

さらに進んで東京駅丸の内北口付近までくると、どどーんとでました。
大型ビジネスビル「OAZO(オアゾ)」です(写真中)。
ここは、“おしゃれなショッピング&ビジネスビル”を標榜しているとみえ、館内はポルティコ風の巨大な吹き抜け、館内からエントランスへつづくイルミも、レモンイエローとシルバーのランプはもちろん、ステンドグラス風の飾りもあり、おしゃれ度3割増な感じです。
それもそのはず、かつては室町将軍の側近にして秀吉の御伽集あがり、熊本藩:細川越中守の上屋敷があったのですから、おしゃれは当然ともいえます(関連はないが)。

ここまでくれば、有楽町方面に流れて、高知藩邸址の東京国際フォーラムなど、さらなる華やかさを追求してよいかもしれませんが、そこはひねくれ者の小生のこと。
もうミレナリオもなくなったことですし、もっと地味なおまけをつけましょう。
最後は、和田倉濠のすぐそばにあるパレスホテル(写真下)。ここは、江戸時代に江戸城の御畳蔵があり、お隣には飯田藩(長野県):堀大和守や三上藩(滋賀県):遠藤但馬守など歴代の若年寄が上屋敷として利用した館がありました。
いちホテルのイルミとはいえ、やっぱ地味ですねー。公邸ともなると、こんなふうになってしまうのでしょうか(関連はないが)。

余談ですが、神田駅周辺は、天和の大火のため、数あった藩邸が郊外に立ち退いて以降は町人町となり、藩邸めぐり的にはいまいち面白味に欠けます。
あ。唯一の例外は、テレビCMのロケ地にも使われる今川小路。神田と東京駅の間、JRの高架下にある飲屋街なんですが、こいつは面白げな感じです。
今川小路は、今川橋の近くにあるためその名がついたのだと思われますが、今川という大名っぽい名前だからといって大名・旗本とは関係なく、当時この地の名主であった今川善右衛門なる人物が橋をかけたため、“今川”の名がつけられたのだといいます。
ちなみに、今川焼はこの付近が発祥だそうです。


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by edohantei | 2006-12-22 23:55 | 藩邸探訪


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